ここ1週間ほど、個人的に興味を持っていたGeoCapabilitiesプロジェクトについて調べてきたことの一端を紹介してきました。まだこのブログでは取り上げていませんが、アメリカ合衆国では、このプロジェクトから派生したPowerful Geography運動という新しい地理教育のアプローチも2017年から展開されています。
こうしたMichael Youngらの「Powerful Knowledge」論をもとにした地理教育の概略を把握しようとして公開されている資料を探している時、EUROGEO(欧州地理学者協会・European Association of Geographers)会長に再任されたラファエル・デ・ミゲル・ゴンザレス(Rafael de Miguel González)の論考に出会いました。
今回は、このブログでの「GeoCapabilitiesプロジェクト」シリーズ最終記事として、ラファエル・デ・ミゲル・ゴンザレスの論考の中で印象的だったことを紹介します。
ラファエル・デ・ミゲル・ゴンザレスと掲載誌について
資料となる文献を探していた時に、私が出会ったのは次の論考です。
de Miguel González, R. (2024). Powerful geography and the future of geographic education. Dialogues in Human Geography, 14(1), 5-8.
先にも述べたように、ラファエル・デ・ミゲル・ゴンザレス(Rafael de Miguel González)は、現在もEUROGEO会長を務めています。確認してみると、2019年にEUROGEO会長に初当選し、2022年、2025年と再選されていました。
また、この論考が掲載されたDialogues in Human Geographyは、特定の学会や組織の機関誌ではなく、SAGE Publishingという民間の学術出版社によって発行される学術雑誌です。しかし、調べてみると、インパクトファクターでは高い評価を受けており、国際的に権威ある独立系学術雑誌として認識されているものでした。ちなみに、創刊は2011年だそうです。
論考の中で印象に残った3つのポイント
「Powerful Knowledge」と「Knowledge of the Powerful」を区別することの重要性
論考では、「力あふれる知識(powerful knowledge)」と「権力層の知識(knowledge of the powerful)」を区別することが重要であると論じています。
力強い地理的知識は市民性育成にとって不可欠
「力強い地理的知識(powerful geographical knowledge)」について、論考では次のように述べています。
これは学生がさまざまな地球規模および地域的課題の相互関連性を理解することを可能にし、市民として自立するために重要である。すなわち、彼らが市民としての権利を認識し、それぞれのコミュニティの改善のための持続可能性の課題を理解するために不可欠なのである。
「希望の空間」を培う大きな可能性
論考の結論部分では、「力強い地理」運動(the powerful geography movement)は、次世代の地理教師と学生の間に『希望の空間』(Harvey, 2000)を培う大きな可能性を持っているとしています。そして、EUROGEO の会長として、強力な地理学に基づく教育学が21世紀の地理教育の未来を再構築する助けとなることを願うという言葉で論考を結んでいます。
ハーヴェイの「希望の空間(Spaces of Hope)」
ハーヴェイの「希望の空間」についても、簡単に紹介しておきたいと思います。
新自由主義時代における理論的貢献
ハーヴェイが「希望の空間(Spaces of Hope)」を表したのは2000年です。四半世紀前のことです。21世紀初頭の当時、世界は新自由主義時代でした。ハーヴェイは富の格差拡大、大企業への権力集中、環境悪化、そしてこれらの問題に対処する政治的意志の欠如を指摘し、この著書の中で「これしかない」という諦めを超えて「希望の空間」を創造するための理論的・実践的ビジョンを提示しました。
グローバル情勢の変化
現在のグローバル情勢は変化しています。ハーヴェイは、より最近の分析において現代を「ポスト新自由主義」あるいは「新国家主義」的な状況の説明として、次のような特徴を指摘しています。
- 国家の再登場と「アクティビスト国家」の台頭
- 国家と資本の新たな関係の出現
- グローバルガバナンスの分断と危機
「希望の空間」の創出
従来の「新自由主義」は、国家より市場を優先し、自由な競争とグローバル化を推進してきましたが、近年は国家による経済介入や国内保護に重点が移っています。ハーヴェイは、強権的国家資本主義と新たな階級連合による「ネオ・スタティズム(新国家主義)」の深化が、「希望の空間」の創出をなお一層困難にしていると警鐘を鳴らしつつも、地理学者らしい空間的・実践的視座から、困難な状況にあっても現代的ユートピア的思考の再構築と市民協働の可能性を問い続けています。
ハーヴェイは「希望の空間」の創出(国家と資本の共犯体制に対抗し得る「市民の自律的協働空間」を地理的・組織的にどう構築するかということ)に関心を持ち続けています。
終わりに
GeoCapabilitiesプロジェクトから始まり、そこから派生したPowerful Geography運動、そしてハーヴェイの「希望の空間」という概念との関係性まで、欧米の地理教育における理論的な広がりを確認することができました。これらの議論が示唆するのは、地理教育が単なる知識の伝達ではなく、学習者が現代社会の複雑な課題に向き合い、より良い未来を創造していくための「力」を育む教育でなければならないということです。
日本の地理教育においても、こうした国際的な議論を参考にしながら、私たちなりの「希望の空間」を創造していく可能性を探っていくことができるようにしたいものです。
蛇足:地理教育における理論的基盤の違い
以前参加したある集会で、欧州の研究者が挨拶の中でドリーン・マッシーの「ともに投げ込まれていること(Throwntogetherness)」という概念に言及したことが印象に残っています。マッシーは「空間や場所は絶え間ない偶発的な出会いのプロセスにある」という意味でこの言葉を使いましたが、その研究者は研究者同士が集い議論できる喜びを表現するためにこの概念を引用していました。
個人的な印象ですが、日本の地理教育研究者の多くは、ハーヴェイやマッシーの理論にそれほど関心を示していないように感じられます。
今回取り上げた論文の著者であるEUROGEO会長は、地理教育研究も手がけていますが、専門は都市地理学で都市計画学の博士号を持つ学者です。こうした背景を考えれば、彼がハーヴェイの「希望の空間(Spaces of Hope)」を理解していることは当然といえるでしょう。
しかし興味深いのは、地理教育の将来を論じる学術論文で「希望の空間」という専門用語を何の説明もなく使用していることです。
日本の地理教育(社会科教育)の研究集会では、このような学術的概念を補足説明をしないで使う研究者はあまりいないような気がします。もし説明なしに使った場合、「『希望の空間』とは具体的にどのような空間を指すのですか?」といった質問を受けることになりそうです。