現代のグローバル化が進む世界では、地理学的な知識がこれまで以上に重要な意味を持つようになっています。デヴィッド・ハーヴェイの著書『コスモポリタニズム 自由と変革の地理学』は、2005年にカリフォルニア大学アーバイン校で行われたウェレック図書館講義を基に執筆され、地理学における新しい可能性を示唆しています。
この講義において、ハーヴェイは地理学的知識が政治的プロパガンダとして利用される危険性を警告しながらも、コスモポリタン的地理教育の実現可能性について論じています。この記事では、地理学的知識の政治的側面と、真の国際的理解を促進する地理教育のあり方について考察します。
地理学的知識の政治的側面
地理学的無知の意図的な助長
ハーヴェイは、地理学的無知が意図的に助長されてきたと指摘しています。彼によれば、「ヌスバウムが不満を唱えたあの地理学的無知をむしろ助長することこそ、長期にわたってアメリカの国民教育政策の主要な―だが秘密の―目標だった」のです。
この無知は偶然の産物ではなく、特定の政治的意図によって作り出されたものです。住民の大部分を意図的に地理的・生態学的・人類学的に無知なままにしておくことで、少数のエリートが狭隘な利害に従ってグローバルな政治を展開できるという構造が存在します。
地理学的知識の政治的利用
高木彰彦氏の研究では、外交政策における地理的イメージの影響について次のように指摘されています:
- 「私たちは世界の国々に対して多様なイメージを抱いているが、こうしたイメージの中には、私たちの実際の見聞に基づく確かなものもあれば、逆に乏しい情報から想像を膨らませて形成された内なるイメージも見られる」
- 「私たちの持つ地理的イメージは、私たち自身の文化的、社会的、歴史的な背景によって形成されている」
このような地理的イメージの偏りは、メディアによってさらに拡大されます。「大衆メディアによって形成される場所イメージや場所の表象といった地理的想像力は、国民的・文化的コンテクストにおいて幅広く国民全般に共有される」ため、外交政策にも大きな影響を与えることになります。
地理学的知識の偏向性
欧米中心主義的な地理学的想像力
地理学的知識の偏向性について、高木氏は「ヨーロッパ人の世界観、すなわち地政学的想像力がヨーロッパ人の世界進出を支えるとともに、その後の植民地主義、帝国主義に重要な役割を果たした」と述べています。
偏った世界表象の共有
さらに、「私たちは世界を表象する様式には偏りがある」として、次のような問題を指摘しています:
- 「私たちはメディアによる媒介もあり、偏りを持った世界表象を国民的に共有し、そうした地理的表象が外交政策や軍事行動などの行為に影響を与える」
- 「客観的で中立的な世界の見方などなく、その結果、特定の地域が強調され、逆に別の地域は見向きもされなくなる」
地理学的知識の危険性
地理学的描写の政治的プロパガンダ化
ハーヴェイは、地理学的知識が無自覚に政治的プロパガンダとして機能する危険性を指摘しています。単に「悪魔は地理的細部に宿る」というだけでなく、「理解しなければならないのは、その細部のすぐれて政治的な性質である」と述べています。
地理学的知識は、その客観性を装いながら、実際には特定の政治的立場や価値観を反映したものになりがちです。このような地理学的知識の政治的性質を理解することが、批判的な地理学教育の出発点となります。
地理学的知識悪用の陳腐さ
ハーヴェイは、地理学的知識が悪用される際の「陳腐さ」について警告しています。一見無害に見える地理的知識が、実際には権力構造の維持や特定の集団の利益追求に利用される可能性があるのです。
コスモポリタン的地理教育の可能性
地理学におけるコスモポリタン的教育の必要性
このような地理学的知識の政治的利用の危険性を踏まえ、ハーヴェイは新しい地理教育の可能性を提案しています。彼の目的は、「地理学において(生態学および人類学と並んで)コスモポリタン的教育を実現することが可能であり、それと同時に困難でもあるということを証明すること」にあります。
このようなコスモポリタン的地理教育は、「グローバルガバナンスの自由で開放的な形態に適合した新たなコスモポリタン的な知的秩序を構築しようとする動きに有意義な貢献をもたらす」可能性を秘めています。
地理学的知識の批判的検討
真のコスモポリタン的地理教育を実現するためには、地理学的知識の批判的検討が不可欠です。これには以下の要素が含まれます:
- 地理的想像力の脱構築:既存の地理的イメージや表象を批判的に検討し、その政治的・文化的背景を明らかにする
- 多様な視点の尊重:単一の地理的視点に固執せず、異なる文化や立場からの地理的理解を尊重する
- 権力関係の分析:地理学的知識がどのような権力構造の中で生産・利用されているかを分析する
地理教育の現代的課題
地理学的知識の複雑性
現代の地理学的知識は、単純な空間の記述を超えて、複雑な社会的・政治的関係を含んでいます。デヴィッド・ハーヴェイの研究は、マルクス主義地理学の観点から、資本主義的空間の生産や都市の形成過程を分析しており、地理学的知識が社会的・経済的構造と密接に関連していることを示しています。
地理教育における市民性の育成
地理教育の目的は、単なる地理的知識の伝達ではなく、市民性の育成にあります。持続可能な社会の構築や現代世界が直面する社会的論争問題に対処できる市民を育成することが重要です。
まとめにかえて
デヴィッド・ハーヴェイが提唱するコスモポリタン的地理教育は、地理学的知識の政治的利用の危険性を認識しながらも、地理学が真の国際的理解と協力を促進する可能性を示しています。
現代社会において、地理学的知識はますます重要な意味を持つようになっています。しかし、その知識が特定の政治的目的に利用されることなく、真の相互理解と協力を促進するためには、批判的で多様な視点を持つコスモポリタン的地理教育が不可欠です。
ハーヴェイの考える「地理学におけるコスモポリタン的教育」は、確かに困難を伴いますが、グローバル化が進む現代社会において、その実現がより一層重要になっています。
地理学の新たな可能性を探求し続けることで、より公正で平和な世界の実現に貢献できることを期待したいと思います。
ナショナル・セントリズムやエスノセントリズムが当然のように受け入れられてしまっている社会状況を知ってしまうと脱力してしまいそうになるのですが…