英語圏の人文地理学で長年続いてきた「スケール論争」をご存知でしょうか。この論争は、私たちが空間をどのように理解し、分析するかという根本的な問題に関わっています。最近の研究発表で、この論争に新たな展開があることを知り、その興味深い内容をお伝えしたいと思います。
スケール論争の基本構図
英語圏の人文地理学で行われてきた「スケール論争」は、空間のスケール(規模・階層)をどのように捉えるかをめぐる学術的議論です。従来、この論争は大きく二つの立場に分かれていました。
本質的存在派(ontological):ローカル、リージョナル、ナショナル、グローバルといったスケールが実際に存在するという立場
認識の枠組み派(epistemological):スケールは研究者が現象を分析するための道具に過ぎないという立場
二項対立を超えた理論的革新
しかし近年、この二項対立の枠組み自体が問われ、全く新しい理論的展開が生まれています。
関係論的転回(relational turn):プロセスに注目する視座
スケールを生産・再編成する社会的・物質的プロセスに注目し、「存在するか/道具か」という問いを超えて、スケールがどのように作られ、変化するかに焦点を当てる視座です。
ハイブリッド地理学(hybrid geographies):重なり合う空間構造
スケールを「水平ネットワーク」または「垂直階層」のどちらか一方ではなく、ネットワークと階層が重なり合う複合的構造(meshwork)として捉える視座です。
脱決定化(de-determination):流動する空間の捉え方
スケールを固定化された枠組みと見るのではなく、常に流動的・可変的プロセスを通じて再構築されるものとして扱うアプローチです。
画期的な「フラット・オントロジー」の挑戦
2005年にMarstonらが提唱した「フラット・オントロジー」は、さらに根本的な転換を提案しました。この理論は、従来のスケール概念そのものを完全に廃棄し、あらゆる出来事やアクター(人間、非人間、制度、物質など)を同一の”平面”に配置する画期的なアプローチです。
これはハイブリッド地理学の「両義的構造」をさらに先鋭化させたものとして位置づけることができ、ポスト構造主義的な思想の地理学への応用として注目されています。
統合への試み:3つの折衷的枠組み
最近の研究では、従来の対立を乗り越える3つの統合的枠組みが提案されています。
1. ネットワーク/階層ダイアレクティクス(Network/Hierarchy Dialectics)
各スケールを「垂直に伸張する階層構造」と「水平に拡散するネットワーク構造」が相互に絡み合った関係として理解する枠組みです。スケールを歴史的に変化する「格子(grid)」の中での位置関係として定義します。
2. 関係論的スケール理論(Relational Scale Theory)
スケールの存在論的瞬間(スケールを生産するプロセス)と認識論的瞬間(観察のスケール)を対立させず、二重性を維持する関係論的理解です。スケールは必ず他のスケールとの関係性を通じて意味を持つとされます。
3. 脱決定化的フラット・スケール(De-deterministic Flat Scale)
フラット・オントロジーの視座を応用し、従来の垂直的ヒエラルキーを廃しつつも、スケールの脱決定化を通じて局地的・マクロ的事象の連続的関係性を捉え直す枠組みです。
方法論的転換:新しい問いへの移行
これらの統合的枠組みは、「スケールを固定的なものとして捉えるか、分析ツールとするか」という旧来の二項対立を乗り越え、スケールを生産・再編成・認識化のトリプレックスなプロセスとして再定義している点で共通しています。
スケール論争は今や「スケールとは何か」を問い続けるだけでなく、「スケールをいかに可視化・生成し・活用するか」という方法論的課題へと移行していると言えるでしょう。
これからの空間研究に向けて
この新しい展開は、地理学だけでなく、社会学、都市計画、政治学など、空間を扱う様々な分野にも影響を与えていくと考えられます。私たちの空間の捉え方が、これまでの固定的なものから、より柔軟で関係性を重視するものへと変わりつつあるのかもしれません。
学術的な議論としてはやや複雑に感じられるかもしれませんが、このような理論的な進展は、将来的には私たちの日常生活における空間の理解にも新しい視点をもたらす可能性があります。
- この記事では、読みやすさを優先したため、Marstonら以外の代表的な論者名や論文名については、敢えて書いておりません。