「生きている歴史」がつくられる場所「閖上」を訪ねて

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名取川河口の港町である名取市閖上(ゆりあげ)地区を歩いてきました。
案内してくださった閖上中学校の先生によると、震災による津波で地区内のすべての避難所が水没し、地区住民の1割を大きく上回る752人が犠牲になったそうです。

最初に歩いたのは、貞山運河にかかる宮下橋。水面からかなり高い位置に津波到達点を示す表示が書かれていました。2

次に、大正時代に人工的に作られたという日和山に登ってみました。階段の途中にあったという鳥居も根元から折れてしまい、代わりに木製の鳥居が立てられていました。3

そして、14名の生徒が犠牲となったという名取市立閖上中学校校舎を訪ねました。今回は、市教育委員会から許しをいただき、特別に校舎内も見学することができました。4

亡くなった生徒の慰霊碑や同級生からのメッセージが書かれた机、千羽鶴を見ながら、間一髪のところで助かった人と亡くなってしまった人がいたことを聞いているうちに、虚しくなっていくのを感じました。

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また、それと同時に、被災した人々の個人的な記憶が、かつてモーリス・アルヴァックスが指摘した「集合的記憶」としての枠組みの中に飲み込まれ始めていることにも気づきました。

閖上地区などで東日本大震災の「集合的記憶」がこれからどのように語られていくことになるか予想することはできませんが、「集合的な記憶」「生きられる歴史」として残って行くことだけは確かだと思います。

これから語り継がれるであろう現在から見定められた歴史の意味を問い続けていくという姿勢を忘れないでいきたいと考えます。

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